あるまじろ日記

武装はそこそこに、ちいさいものです。

6年前の今頃は

あの日は友だちと会う予定でファミレスにいました。平日の昼過ぎで空いていて、4人がけの席にひとりで座って待っていました。あ、地震だ、と思った時、まだそんなに大きな揺れじゃなかったのに、親子で来ていた小さい女の子が悲鳴をあげたので驚いた覚えがあります。それからの揺れは生まれて初めて感じる類のもので、考える間もなくテーブルの下に入ったし、テーブルの脚に捕まっていないと振り出されそうで怖かった。振り出されたら死ぬ、と思った。

大きな揺れが収まった後もしばらく揺れが続いていたのか、ファミレスの看板はギシギシ音を立てて揺れているし、駐車場に並んだ車も揃って揺れていた。それだけはなぜか面白くて笑えた。静まり返った店内、「お金はいいので皆さん避難してください」という店員さんの声と、ヤンキーの「え、まじでいいんすか?まじで?大丈夫?」という声はよく覚えている。店員さんすごいな、ヤンキーいい奴だな、と思ったから。

とりあえず店から出て、まずは途方にくれた。それから会うはずだった友だちと、父と母と妹にそれぞれメールを送った。そうして、そうだ家に帰ろうと思い立ち、自転車を人生でいちばん速く漕いだ。途中の家の屋根や塀が悉く崩れていて、どこもかしこも灯りが消えていて、家は、家族は、どうなっているかとどんどん怖くなった。揺れている時よりよっぽど怖かった。

家はちゃんと建っていた。そして誰もいなくて、猫だけが2匹いるはずだった。お隣の人が外に出ていて、母はさっき帰って来て、妹を迎えに行ったと教えてくれた。家に入りたかったけれど、揺れは続いていたのでお隣さんに止められた。母が帰るまでは外で待ちますと答えた。「こんなことになるなんて、今年は卯年だから」とお隣さんがしきりに言っていた。

そのあいだ、送ったメールに返信はひとつもなかった。母が無事だったことはわかったけど、父と妹がどうしているか不安だった。父は原研の近くにいるはずだった。

 

夕方になって、母と妹が無事に帰り、怯えた猫たちも家の中で無事に見つかり、みんなで避難所へ向かった。いちばん近い避難所だった中学校は、体育館が崩れたため避難所として機能できなくなっていた。次に行った公民館も最後に行った小学校も人でいっぱいで、車で過ごすことになった。日も暮れはじめた頃、父が帰ってきた。あのとき以来、家族を邪険にすることはなくなった。いなくなることの恐怖は忘れられない。

 

電気もガスも水道もしばらく使えなかったけれど、家も住める程度の被害だったし、身近な人は皆無事だったし、とても幸運だったと思う。それでも、全てなくなったかもしれない、という恐怖は染みついていて、未だに震災関連の報道を見ていられない。無事だったくせに、怖くて仕方ない。そんな自分を抱えたまま、6年が経った。