あるまじろ日記

武装はそこそこに、ちいさいものです。

いつでもかけぬけて

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家の隣の公園、満開の桜を見て、いつかの卒業式とか、始業式とか、とにかく春のことをとりとめもなく思い出しています。

いちばん鮮明に、色と手触りとそのときの気持ちまで思い出せるのはいまでもまだ最後の始業式で、でも確実に、毎年少しずつその後の痛さに悲しまなくなってきたようで。

「あのころ」の自分とはもう違うということに気がついて、それを嬉しく、すこしさみしく思う。教えてあげたいなぁ。時間が解決してくれるっていうのは本当にほんとうなんだよ、って。

 

春は「出会いと別れの季節」とよく聞きますが、わたしには「終わりと始まりの季節」の方がしっくりします。

 

春は好きです。

つきぬける青空に、白くてピンクの桜の花がきれい。

一方的に終わりにされたのも、一方的に終わりを決めたのも、桜の木の下で、よく晴れた日だった。

そんなことしなくてもなにか終わるのはどうしたって春が多い。いまでも。きっとこれからも。

だから春は、好きだし嬉しいけど、どうしてもどこかさみしくてちょっと苦しくなる。

 

終わる、ということは、それまでいた慣れた場所からぽいっと放り出されて、はい、どこかへ行きなさい、と言われるような心地がする。準備ができていないと、しばらく立ち竦むはめになる。もう安心なものなんて何もなくて、不安で歩けないような気がする。

 

でも放り出されたということは、あたらしい世界で自由を手に入れたということで、どこに行っても、何を作ってもいいわけで。

未練とか後悔とかそういうものが薄れてくると、突っ立っているのにも飽きてくるから、とりあえずむやみに歩いたりする。終わっちゃったなぁ、と思いながら、次はどっちへ行こうかな、と考え始める。こっちだ!って思って転んだことも、引いてくれる手を振り払ったこともある。

それでもうろうろしているうちに、いつのまにか放り出された世界に親しんでいて、いつのまにか新しい自分になっている。子どもの背が伸びるみたいに終わったあのときから少しずつ、毎日見てると気づかないくらいに。

 

長々と、だからなんだよ、というお話でした。

だから、そうだなぁ、春も桜も好きです、見られてよかったです。

おわり。